悩ましい選択

 つい先日のことですが、ブライズのとある女性会員の方に相談を持ちかけられました。
 やがて30歳になろうかという会社員の女性。ブライズの男性ではない、同じ会社の男性に心惹かれるようになってしまったと彼女はいいます。
 彼はずいぶん年下で、自分とはつり合わない気がするけど、気がつけば彼の姿を目で追っている自分がいる。ブライズで声をかけてくれる男性がいるけど、あまり乗り気になれない。これから私はどうすればいいのだろうという悩みでした。

 それであなたは会社の彼にぶつかっていく勇気はあるの? と聞くと、それはまったくないと彼女はいいます。だから悩んでいるのです、と。
 その悩みを受け止める側、つまり私も、ちょっと悩んでしまう。これが不倫の間柄だとかだと、それはやめなさいと全身で止めることができるけど、普通に恋してしまうこと自体をだれもとがめることはできません。

 人はある種の情熱と、現実のあいだをいつも行き来して生きているものです。
 どちらが欠けても、人生のゆたかさからは遠ざかってしまう。
 私がこういう質の悩みに向き合って、いつも恐れるのは、しかし現実はものすごい速度で過ぎていくということです。情熱やあこがれというのは、現実の時間感覚をどこか麻痺させてしまうものでもあるということ。

 情熱やあこがれをほどよく制御できればいいのだけど、そこにはそれなりの人生経験も要ることでしょう。だから難しい。
 「結婚」は、情熱をものさしに考えるべきことか、現実をものさしに考えるべきことなのか、それをまず自分なりに「決定」していくことが大事かもしれません。
 どちらに重きを置いても、それなりの覚悟が要ります。その覚悟の有る無しが、婚活の成否を決めるのかなあ。それは男性も女性も変わりません。

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2012年2月18日 10:48 長井 春美

想像してみる

 結婚相談所での婚活のベースは、つまり「お見合い」です。知り合いや仲人さんが勧めてくれるお見合いと少し違うのは、この人と会ってみたいという意志がそこに含まれることだけど、でも、それぞれに、互いを知ることが少ない状態で人と会うということではまったく同じ、「お見合い」です。

 お見合いの良さのひとつは、自分をニュートラルにした状態で、お相手を見ることができるということなのだろうと私は思っています。
 ニュートラルとは、先入観をもたないことでもあるのだけど、あらゆる角度から見ることでもあります。

 たとえば女性の立場から、相手の男性を見るとき、夫としてのこの人はどうなのだろう、ということのほかに、子ども(ができたとして)の父親としてどうなのだろう。年齢が進んだときのこの人は、どうなのだろう。老いたときはどのような人になっているだろう。そのように複層的に相手を見ていくと、彼や彼女の思わぬ魅力に遭遇するときがあります。

 すごい不器用で、恋人としているときの私を、けっして楽しませてはくれなさそうだけど、でもでも不器用に、いつまでも自分や家族を愛してはくれそうだ。というように、どこにポイントを置くかということで、人の魅力は違って映るものでもあります。
 はじめに、心をぐいと鷲づかみにされちゃうと、そういうものをしみじみ眺めることはむずかしい。でも、お見合いなら、それもじっくりはかることができるということ。

 子どもが巣立ち、定年を迎えたあとの二人、なんていうのを想像してみるのもよいかもしれません。そのとき自分は相手に寄り添って、いつも微笑んでいられるだろうか。
 人は必ずしも、はじめの強く鋭い好意だけで結びついているわけではなく、むしろ糸を縒るように、ともに生きていく歳月が徐々に太く強くする絆もあります。
 それを「見合う」ためには、お相手を長いスパンで見ることが大事なんだとおもうのだけどな、私は。

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2012年2月11日 11:30 長井 春美

明日を考える

 年齢の話をするのはあまり好きではないのだけど(笑)、私はいま結婚の適齢期を迎えている人は当然、そのお父さん、お母さんよりも少し上の世代にあたります。
 それなりに長く生きてきて、ひとつ思うのは、人の人生にはいくつもの節目があったり、いくつもの山も谷もあるということ。
 
 家族の関係だけでそれを振り分けていくと、「私」という人間には、親の子どもであった時代と、子どもの親であった時代と、子どもが親になった時代(現在)がありました。
 それぞれの時代も、もっとつぶさに見れば、いつも変化しています。たとえば、子どもであった時代の中後期(高校生から大学生くらいかなあ)は、もちろん無意識のことなのだけど、「私ならこうする」というように、親を見て、やがて親となる自分を考えていたような気がします。子どもの親であった時代は、子どもの手が離れるのを見ながら、そして老い病む自分の親を見ながら、自分が老いるということについてずっと考え、それなりに学んでもきました。
 人生というのはつまり、「現在」という時間はいつも、次の時間のための学習期でもあるのですね。

 子どもである時間も、親である時間も、いずれも限りがあります。
 限りがあるとは、いつまでもそこにとどまれはしないということ。つぎの時期に入ったとき自分はどう生きればよいのか、それを考えさせてくれるのが、結婚なのだろうと私は思っています。考えるべきは、子どもである自分、親である自分、そのいずれもなのでしょう、きっと。
 

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2012年2月 4日 11:20 長井 春美

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